浜松の宝“舞阪漁港と浜名湖”

浜松の宝“舞阪漁港と浜名湖”

 

舞阪漁港は日戻り漁港で、夜明け前から漁に出て、その日の昼から競りが始まります。船から揚げられたばかりの漁れたてを、その場で分けて頂くことで、極上の鮮度を保ったままお客様に味わっていただける、大変希少価値のある漁港なのです。

 
舞阪漁港と浜名湖の構図
舞阪漁港と浜名湖の構図
   

もう一つの魅力、浜名湖はすばらしい自然環境と、レジャーや観光の他に、とても大切な存在であることをお話します。

 

国内第十位の面積を誇る浜名湖は、わが国屈指の汽水湖で浜名湖と遠州灘と舞阪漁港をつなぐ幅200メートルの今切口が玄関となり、潮の満ち引きでなんと遠州灘の海水が浜名湖に一日4千トン、全水量の約12%が出入りします。その中には多量の魚の卵や稚魚が混入しており、その海水が流入することで、湖内はちびっ子魚でいっぱいになります。

 

浜名湖には豊富なプランクトン、たくさんの隠れ家と、魚が育つための最適な条件が整っており、稚魚はすくすくと成長します。やがて成魚に育つと、今切口より再び外海に旅立つことからも、言わば浜名湖は魚の幼児発育施設といえます。

 

湖内で確認された魚介類はなんと700種類にものぼり、そういう意味でも浜名湖は大切な存在なのです。遠州灘、さらには太平洋の水産資源の観点からも、とても重要な役割を果たしているのです。

 

 

 

浜名湖
浜名湖
 

徳川家康公が食べた浜松産・静岡県産

   

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徳川家康公は約30年間静岡県に住んでいたとされています。

 

29歳~45歳までの17年間は浜松城を居所
45歳~49歳の4年間及び、
66歳~75歳までの9年間(合計13年間)は駿府城を居所

 

 

特に浜松城を居所にしていた時期(29歳~45歳)は徳川家康公にとって、働き盛りの年齢でもあり、後の大成をなす為にも、とても大変で重要な期間であったことは言うまでもありません。

その重要な17年の間、徳川家康公は浜松で漁れた魚を食べ、浜松で作られた野菜を食べ、浜松産の物に囲まれ英気を養っていたことでしょう。

 

 

何を食べて育ったかで未来も決まる!

 

何を食べ、何を飲んでいたのかは、体型・体質・健康など、人体に大きく関わります。しいては、考え方などにも影響し、それによっては人品や人格の形成にまで至る。大げさかもしれませんが、そんな風にも考えられます。

 

食べた物、飲んだ物によってさまざまな影響を受けながら、人はつくられていきます。言わば一食一食が命の貯金というわけです。 食品や薬品などによって、調子が良くなったり、悪くなったり、力が付き回復したり、お腹を壊したり、栄養が足りなければ、栄養失調になりバランスを崩します。それらの栄養や効能は必ず何らかの形で身体に影響を及ぼします。  

 

私共は、徳川家康公が、後に偉業を成す為の礎を築く、重労働を支えた基盤こそが、まさに「 浜松の食文化 」であると考え、誇りを持っております。事実、徳川家康公のみならず、この地域から世界的に有名な企業が数多く生まれております。

 

  海・山・川、さらに浜名湖など豊かな自然の恵みに囲まれ、整った環境。そしてその中で育ち、力を蓄えていった徳川家康公。これはまぎれもない事実です。だからこそ、私どもは由緒正しく、力強い「浜松産・静岡県産」にこだわりを持ち、守っていきたいと考えております。